2016年1月2日土曜日

WAKA(3)について

 WAKA(3)ーあかとき露にー(http://gorom8.blogspot.my/2016/01/waka3.html)の第2句“ya-ma-to-e-ya-ru-to”の“ya-ru”を、「派遣する(send forth)という意味そのままに解するのは適当ではない」と書いたが、これをそのまま“send forth”と見ることも可能である。斎藤茂吉の『万葉秀歌』では次のようになっている。「『大和へやる』の『やる』という語も注意すべきもので、単に、『帰る』とか『行く』とかいうのと違って、自分の意志が活《はたら》いている。名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。」やや分かりづらい書き方になっている。「自分の意志」とは、誰の意志なのか。“Ohtsu no Miko”ではなく、“Ohku no Himemiko”の意志、と受け取るのが順当なところだろう。
 そうすると、“Ohtsu no Miko”は“Yamato”には帰りたくなかったのだということになろう。どこか身を隠すところを探して、伊勢の姉のところにやって来た。姉は斎宮であるから、男性を長い間、身近に置いておくことはできないのではないだろうか。見方を変えれば、絶好の隠れ家にもなりうるのだけれども。そうすると、またどこか身を隠すべきところを探すことになる。姉は弟に、そんなことをしていてはいけない、さっさと“Yamato”に帰りなさい、と諭したということになる。
 以上のような理解になると、WAKA(3)ーあかとき露にー
( http://gorom8.blogspot.my/2016/01/waka3.html )で、姉が弟を見送ったあとで長時間立ち尽くしていたこと、弟の死を知ると深い悲しみに沈んだことが、どうもすっきりしなくなるように思う。僕は、“Ohtsu no Miko”が“Yamato”に戻ったのは、彼自身の意志ではなかったかと考える。それで、“ya-ru”という言葉を文字通りには解さなかったのである。

 WAKAの記述について、誤りがありましたらご指摘ください。また、この歌はこのようにも解釈することができるのではないか、声調についてこのように考えることもできるではないか、というようなご意見がありましたら、やはりお知らせください。コメントは受け付けてはおりませんので、メールでお願いします。

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(November 10, 2014)

WAKA(1)ー真幸くあらばまたかへり見むー
http://gorom2.blogspot.my/2014/12/waka1.html

WAKA(2)ー磐余の池に鳴く鴨ー
http://gorom2.blogspot.my/2014/12/waka2.html

WAKA(3)ーあかとき露にー
http://gorom8.blogspot.my/2016/01/waka3.html

WAKA(4)-何しか来けむ-
http://gorom8.blogspot.my/2016/01/oceanocean-and-forested.html


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